川本梅花 フットボールタクティクス

【ノンフィクション】#相田勇樹(#ヴァンラーレ八戸)君が歩んで行く道に幸あれ【無料記事】

【ノンフィクション】君が歩んで行く道に幸あれ

相田 勇樹(ヴァンラーレ八戸)
1998年8月3日生 東京都出身 172cm 66kg
経歴:あきる野FC-山梨学院高校-札幌大学-ヴァンラーレ八戸

山梨学院高校の10番がいる

1月中旬の北海道は凍えるような寒さだが、あの日は「ような」という比喩表現で言い表せる寒さではない、まさに凍える寒さだった。体育館の前の駐車場に止めてある車に相田 勇樹を招き入れた。暖房で温めていた車内は、凍えた身体を少しだけ落ち着かせてくれた。相田と話したのは、その時が初めてだった。

河端 和哉が札幌大学サッカー部の監督に就任したのは、いまから4年前の1月。相田はちょうど1年生を終えるところだった。「山梨学院高校の10番がいる」。うわさでは聞いていた。だが、それとは別の話も届いている。

「相田がサッカーを辞めるかどうか迷っている」

そんな話を間接的に聞いても「だろうな」としか思えない。きっと相田にとって札幌大学サッカー部は、彼が思っていたようなチームではなかったのだ。「ここでやっていても、もうダメだ」と本人が考えているとある程度は推測できた。それでも一度は相田本人から話を聞かなければならない。

「ちょっと乗れよ」と足早に帰宅しようとする相田を引き留めた。

「賭け」に出た河端和哉

河端が監督に就任する前のサッカー部は、部活の体をなしていなかった。統率する大人もいない。学生たちは自分の好き勝手に行動をする。もちろん、それを戒める者は現れない。グラウンドは整備されないままほったらかされる。学生たちは、自分たちで使った用具ひとつ管理できない。部室には学生個人の荷物がグジャグジャに散らかっている。無秩序に近い状態だった。

就任したその日、河端はたった1人で9時間掛けて部室を掃除する。試合で使った全員分の短パンを部室で洗うのも河端の仕事だった。練習におけるランニングでは、河端が学生と一緒に走って声を出している。試合では、ベンチから選手に大声で指示を出す。まるで現役復帰したかのようだった。

すぐに結果は出ない。当然だ。しかし段々と、本当に少しずつ、河端の受け持つ仕事は減っていった。河端の振る舞いを目の当たりにして、学生たちが徐々に変わっていったのだ。

河端が相田に声を掛けたのは、本格的に監督として活動する前のことだ。退廃したサッカー部の現状を知れば、相田の気持ちは分からないでもない。うわさでは聞いていたものの、ここまでひどいありさまだとは思わなかった。

河端は相田に問いかける。

「辞めたいと聞いているけど……」

相田からの返事はない。返事がないことが返事なのか。つまり辞める決心をしているのか。河端は再び言葉を投げかける。

「1年目はどうだったの?」

すると相田はキッパリと答える。

「ここでできることはやりました」

相田がどんな返事をするか、河端は想像できていた。思っていた通りの答えだった。すかさず河端は相田のプライドをくすぐる言葉を置いた。

「ああ、そんなレベルなんだ」

相田は何も答えない。河端は再び疑問形を投げてみる。

「で、何をやったの?」

「1年目から試合にも出られたし」

「そうかな。ここは札幌大学で、北海道では多少強いかもしれないけど、全国では弱いよ」

その年の総理大臣杯、札幌大学サッカー部は北海学園大学に0-7で負けていた。

「そんな試合をしていて、ちょっとくらい試合に出られたからと言って、『できることはやりました』『今年1年やった』ってすごいね。大学選抜に入って、プロからも誘いがいくつもあって、それくらいになったら『やった』と言える。何もやってないじゃん。それでよく言うよね」

相田にとって厳しく悔しい言葉の羅列だったに違いない。相田がもっと子供っぽい性格だったなら「分かりました。もういいです」と言って車から飛び出していたかもしれない。しかし彼は違った。じっと河端の話に耳を傾けた。

現役時代の河端は、自分を求めてくれるクラブに移籍してきた。北海道から沖縄まで、さまざまなクラブを渡り歩いた流浪のDFだ。そうした経験の中で、いろんな性格の選手と関わってきた。チームを立て直すため、時には選手同士で衝突もした。しかし全てはチームのため、誰かのためという背景が必ず彼の行動を支えている。大学のサッカー部監督になっても、その姿勢に揺るぎはなかった。若くて才能あふれる相田が、どうしたら「思い上がり」に気付いてくれるのか。河端は相田と話す前に散々考え抜いて、この日にかけていた。

話を合わせて取り繕う必要はない。自分は新人監督かもしれないが、なんとしても相田を導いてあげたい。このままでは彼の才能が埋もれてしまう。そこで河端は「指導者としての自分にかけてもみないか」という思いを相田に伝えることにした。

河端は少しだけ相田の方に視線を向けて言葉を切り出した。

「辞めるかどうしようか迷っているって聞いたけど、俺が来たから、あと1年やってみないか。それでも『やれることはやった』と思えるんだったら辞めなよ。その時は引き留めない」

相田は唇をかみながら話を聞いている。そして言葉を絞り出す。

「分かりました」

光がある方向に顔を向けろ!

サッカー部のうわさは、監督就任前から河端の耳にも届いていた。「規律がない」「だらしがない」。そういったうわさだ。当時は高校の監督たちからも「札幌大学と試合をしたくない」と断られる状態だった。そうした中で、なんとしても相田に気付いてほしかった。「君の才能は、自分が考えている以上のものがあるんだよ」と。

河端は相田についてこんな風に話したことがある。

「いままで育ててくれた方が素晴らしかったのだと思います。周りのことを考えられる子なんです。良いもの悪いものをきちんと判断できる。自分の立ち位置をきちんと把握できる。真面目な性格だったので、退廃したサッカー部では無理だと思ったんでしょう」

河端は常に叱咤激励していたわけではない。相田には何も言わずとも感じ取る力があった。3年生になって、相田は上級生を抑えてキャプテンに指名される。札幌大学のキャプテン選考は、学生たちの投票で行われる。キャプテンとなった相田は、大きな成長を遂げる。

河端は「僕がキャプテンに求める人物像は、見本になる行いができることです。まず周りのことを考えてあげられる人。相田がキャプテンになった時、僕は『責任を持って行動しなさい』とだけ伝えました。総理大臣杯で負けた試合があって、その時の負けが、彼にとって成長する大きなキッカケになりました。相田は自分の力のなさや、周りをまとめながら自分も力を出す難しさを学んだんです」

河端が相田が出場するヴァンラーレ八戸の試合を見ていた時、こんなプレーを目撃する。八戸GKが前に出てボールをクリアしようとする際、相田はすぐさま無人のゴールの中に立ってカバーした。相田のプレーを見た河端は学生たちにLINEを送る。

「おい見たか、いまのプレー。あれが相田なんだよ。みんなも見習ってくれ」

結果的に河端の「賭け」は報われたことになる。「思い上がり」を気付かせた河端と、それに気付いた相田。2人の巡り合わせが、たまたま良かったのかもしれない。だが確かに言えることはある。いくら素晴らしい助言であっても、言われた方に受け止められる真摯さがなければ意味をなさない。相田はそれを備えていたし、本能的に備えているだろうと見抜いた河端が、そこにいたのだ。

川本梅花

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