川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】U-24日本代表についての雑感(1)【コラム】メキシコ代表戦後半に、なぜ三苫薫をピッチに出したのか?

【コラム】U-24日本代表についての雑感(1)メキシコ代表戦後半に、なぜ三苫 薫をピッチに出したのか?

2021年7月28日20時30分からU-24日本代表が、グループステージ突破をかけてU-24フランス代表と戦います。日本は、U-24南アフリカ代表に1-0の勝利で初戦を飾り、2戦目のU-24メキシコ代表戦では2-1と逃げ切って2連勝します。3戦目のフランス戦を前に、日本のサッカーを少し考えてみたいと思います。おそらく今後のフル代表での戦い方も、今回の戦い方が基本線になるでしょうから、問題点はそんなに変わりません。

まず、メキシコ戦の試合で、79分に堂安 律に代えて三苫 薫をピッチに送り出しました。そこで三苫は得意のドリブルを見せて3人のメキシコ選手を抜いてゴールに迫ろうとします。しかし、相手に阻まれてボールを失います。メキシコは、奪ったボールをすぐに縦へとパスを送ります。挑んでは引っ掛けてボールを失う。こうしたことが数回ありました。このプレーに対して、サッカーライターの発言やSNSの意見では、リスクマネジメントの欠落が嘆かれています。森保 一監督やスタッフが、「三苫をピッチに出す前になぜ指示をしなかったのか」との意見を目にして、「確かにそうだけど、その結論は短絡的過ぎないか」と僕は思っています。

なぜ三苫薫をピッチに出したのか?

試合後の会見で、三苫のプレーに関して特に質疑応答がなかったようです。従って真相は分かりません。僕が言いたいのは、別の考え方も成立するのではないのかという疑問です。それは、森保監督が「3点目を狙って三苫を起用した」という考え方です。ベンチには、三苫以外にも出場できる選手がいたのに「なぜ三苫なのか」を考えないといけない。3戦目のフランス戦やノックアウトステージでの戦いを考慮して、後半に三苫を投入したのは確かなことでしょう。それ以外の理由としたら、「三苫を起用して追加点を奪って試合を終わらせようとした」という考えも成り立つのではないのでしょうか。

経験豊かな森保監督は、試合をどのように終わらせることがベストなのかを熟知しています。そんな監督がピッチに出したのが三苫だったのです。Jリーグを見ていれば、三苫がどんなプレーをする選手なのかは想像できます。三苫自身も、あの時間帯にピッチに出されたら、何らかの爪痕を残そうと考えてプレーするでしょう。そうしたことも考慮しての三苫起用ならば、交代出場させた理由は、以下のような2つが考えられます。

  1. これからの試合を考慮して、三苫がどれだけ動けるのかを見るために、さらに五輪の試合を経験させたかった。
  2. 追加点を奪って3-0で試合を終わらせようとした。

確かに、2-0で試合に勝っていて、なおかつ得失点差が関わってくるグループステージ突破において、ボールを回して保持してリスク回避した戦い方も選択肢としてはあったし、戦い方としてはそれが正解なのかもしれません。しかし「なぜ三苫なのか」を考えた時、上記の2つの理由が考えられるという話です。

人は「こうした方が正しいし定説だ」といつの間にか固定観念にとらわれます。そして、その考えが唯一の正義や正解のように思い込んでしまう。スポーツの試合は、データによって確率の高い方を選択することが勝利への近道でしょう。問題は、どの選択が確率の高さを示しているのかを手に取るのは、結局のところ、恣意的ということです。その状況で「ポゼッション」を選択するべきか、「追加点を奪うこと」を選択するのかは、恣意によって決定されるのです。

どちらを選択するにせよ、確率の高さは勝利への近道であっても、正しい道ではないということです。別の選択肢を選ぶことで、結果は違ってくる。もしも、メキシコ戦で79分にリスクマネジメントを重視して、ボールを保持するサッカーをしても失点をしたかもしれません。つまり、ボールを回している中で、相手が高い位置からプレスをかけてきてインターセプトされてカウンターをもらって失点をしてしまうケースもあります。森保監督は、ボールを保持するサッカーをして守り切るよりも、得点を奪ってゲームを終わらせる選択をした。もしそうならば、それも選択肢の1つだと考慮されてもいいのではないか。もちろん、選択した結果の責任は、それを選択した監督にあります。

選択肢は、選択した人の恣意によって変わってきてしまう。勝つための確率が高いと考えて選択する対策は、データを重視した上で、目の前にある事象によって変わってきます。実は、どの選択を選ぶのかは恣意的なのだけれど、いつの間にか「これが正しい」と思い込んでしまうこともその人の恣意によっているのです。問題は、その人がどうやって考えて、それを選択したのかを探ることが、大切なのではないのか。自分だったらこう選択したと考えることと、他者が選択したことの差異をもっと思考するべきではないのでしょうか。これが、僕の意見です。

川本梅花

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