川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】名将と呼ばれない神【コラム】映画「ジダン 神が愛した男」を見て

映画「ジダン 神が愛した男」を見て

-「21世紀の肖像画」を記憶に刻み込め-

名将と呼ばれない神

2017年6月3日にUEFAチャンピオンズリーグ(UCL)の決勝戦が行われた。レアル・マドリーがユベントスに4-1で勝利を収めて2連覇を成し遂げた。素晴らしいフィナーレを飾ったレアル。当然、チームの監督であるジネディーヌ ジダンを称賛する声がいたるところから聞こえてくる。そうなるはずだ。なんと言っても、勝点93でスペインリーグ優勝とUCLの勝者であるチームの監督なのだから。メディアから名将という賛辞を送られる。普通ならば、そう言われるに違いだろう。しかし、ジダンの場合、そういう声は聞こえてこない。一部では言われているのだろうが、ジダンの采配や戦術を圧倒的に称賛する声はあまり聞かない。

UCLの試合会場は、カーディフのウェールズ国立競技場である。レアルは、ユベントスと対戦する。レアルの監督のジダンにとっては古巣となる。試合前のジダン監督は、「ユベントスは、自分にとって特別なクラブである。選手としてのキャリアで、非常に重要なクラブだった。しかし今、私はレアルで仕事をしている。レアルは、人生とも言えるクラブだ。美しい決勝になるだろう」と述べた。ジダンを囲む物語は、準備万端である。

実際にレアルは、超攻撃的な美しいサッカーでユベントスから勝利を奪う。そして、2連覇達成の快挙を得る。レアルがこれほどの成績を収めたならば、ジダンの監督としての評価が高まっても不思議ではない。しかし、レアルの勝利とジダンの評価が同一に語られることはあまりない。特に、スペイン人のジャーナリストのヘスス スアレス記者の発言には悪意があるのかと疑うほど厳しい言述を贈る。

「私は以前から、ジネディーヌ ジダン監督のチームマネジメントには懐疑的だった。フランスの英雄は、ボールプレーを磨きあげる作業を放棄し、効率性ばかりを追求した。その象徴がBBC(ベイル、ベンゼマ、ロナウド)であり、カゼミーロであった。なぜジダンがアンカーのポジションでカゼミーロを重用するのか、私には全く分からない」

スアレス記者はこんなことも述べている。

「ジダンは不可解な指揮官である。そのプレーモデルは、かつてのカルチョのスタイルに近いが、ジダン自身は『スペクタクル』をモットーに掲げる。そして戦術的な交代策は下手だが、戦局を見極める目だけは持っている」

褒めているのか、けなしているのか、分からなくなる発言だ。そして、かの記者は、極め付けとして「見えざる力が働いているような気がしてならない」とまで言い切るのである。

実際に、スアレス記者が指摘する2月26日の第24節・ビジャレアル戦で見せた交代劇は圧巻だった。アンカーでカゼミーロを起用していたのだが、このブラジル人のアンカーは、この日はミスが目立った。ジダンは後半13分にイスコと交代させる。イスコがピッチに入ったことで、ボールを持って前に運ぶサッカーになる。それまでは、ショートカウンターが狙いのサッカーだったが、イスコ投入でサッカーの質自体に変化がでてくる。0-2でビジャレアルに押されていたゲームだったが、一気に形勢を逆転させて、終わってみれば3-2でレアルに勝利が転がり込んでくる。こういう現象を指して、スアレス記者は、「見えざる力」と述べているのだろう。ジダンの「見えざる力」を堪能するのは、この映画を見ることをお薦めする。

「ジダン 神が愛した男」のストーリー

2005年4月23日リーガエスパニョーラ、R・マドリー対ビジャレアルでプレーする、ジネディーヌ ジダンをひたすら追いかけた映像。監督は、現代美術の優れた作家に贈られるターナー賞を受けたスコットランド人アーティストのダグラス ゴードンと、フランス人アーティストのフィリップ パレーノの2人。撮影はダリウス コンジが指揮。高解像度カメラを含む15台のカメラで撮影。芸術色の濃いドキュメンタリー映画である。

「見えざる力」を目撃した日

僕は、ジュネーヴ在住時代、ジダンのプレー見たさに、フランス代表の試合があるたびパリに赴いた。ある時は、列車を乗り継いでR・マドリーの試合を見にスペインまで足を運んだこともあった。僕はジダンの「見えざる力」を何度も目撃している。彼がボールをキープすると相手選手は一定の距離を保ったままアタックを仕掛けようとしない。アタックしに行っても、かわされるからアタックを仕掛けないのか、それともジダンの周りに何らかの「見せざる力」が働いているのか。当時の僕には、彼のプレーがそんな風に映った。今でも言えることは、ジダンのプレーは、ほかの選手とは別な次元、全く異なる空間をたった1人でピッチの上に創り出していたことである。

“デカドラージュ”の技法で視線を外す

フランス代表であったスーパースター、ジダンは、ピッチ上で相手の挑発行為にすぐに興奮し、何度も退場処分を科された「学習しない人」の1人である。ジダンは、現役時代なんと14枚ものレッドカードをもらっている。例えば、1998年フランスW杯のサウジアラビア戦、2000年ユベントス在籍時代のUCL・ハンブルク戦、2004年レアル・マドリー時代のムルシア戦などは有名だ。ドイツW杯の決勝戦、イタリア代表のDFマテラッツィの胸元に頭突きを喰らわせて一発退場になったシーンは記憶に残っているが、ここに挙げたハンブルク戦、ムルシア戦でもやはり頭突きで一発レッドを喰らっているのだ。

映画『ジダン 神が愛した男』は、暴力行為を働き退場させられたR・マドリー対ビジャレアルでのジダンを追いかけたドキュメンタリー作品である。画面は、ただひたすら彼の動きを映し出す。原題は『Un Portrait du 21e Siecle』。サッカー界の『21世紀の肖像画』として、ジダンを描いている。

この作品は、映像と音のコラボレーションから成立している。カメラの位置や構図、アングルによって音響の種類が変わるのだ。まず、ジダンの姿や足がクローズアップされる時は、リズムに刻まれた音楽が流される。次に、カメラがピッチ上の選手の視線と同じ高さの時は、観客の声援と選手の声が拾われる。さらに、TV観戦でよく使われるピッチ全体を見渡せる位置にカメラがある場合、“デカドラージュ”と言って、フレームの中心ではなく、あえてフレームの外や縁に視点を持っていって、濁ったような不自然でアンバランスな映像を作っている。これは、TV観戦などスタジアムの外から試合を見ている人の視線を表現したいがためだろう。だからこの場面には、アナウンサーと解説者の実況が挿入されているのだ。

音響とカット割りで表現されたもの

映像を担当したのが、監督ジャン ピエール ジュネの傑作『デリカテッセン』を撮ったダリウス コンジ。彼は『ジダン 神が愛した男』の中で、“長回し”と言って持続時間の長いショットと短いショットをうまく使い分けている。ジダンの喜びの表情が、はっきり読み取れる場面は、比較的長いショットを採用する。R・マドリーのCKの際、ボールが誰にも届かず大きくラインを割ったシーンがあった。その時、ロベルト カルロスが両手を広げてジダンに何か話しかけていた。ジダンは、笑顔でロベカルに受け答えする。その笑顔は、ジダンの日常の素顔が垣間見られたような感覚さえ得られる。

逆に、ジダンの怒りの表情が見られる時は、ショートカットをつないで、興奮した場面の臨場感を出そうと試みている。試合途中、退場処分に不満を抱いて感情をあらわにしたジダンを、ラウールが抱きつき止めようとした場面がそれに当たる。長いショットと短いショットを使い分けることで、ピッチ上に流れる時間の経過とその時に起こる出来事の違いを、はっきりと対比して表そうとした。

哲学者ジル ドゥルーズによれば、映画とは「現在のイメージと共存するそのような過去と未来とを捉えることができる」ものだ、と言う。この難解な言い回しは、簡単に言えば、こういうことだ。僕たちがそれぞれ抱くジダンのイメージというものがある。ある人は、ジダンのプレーを神格化して、神業と呼ぶ人もいるだろう。そういった「現在」のジダンのイメージは、ジダンが「過去に行ったプレーの記憶」と、「未来に行うかもしれないプレーへの期待」――この時間軸が異なる2つの映像をダブらせることによって、人がそれぞれ創出したものが「現在のジダン」なのだ、と僕は解釈する。

現役プレーヤーではないジダンは、僕たちの記憶が創り出した、それぞれのイメージの中にしか、もはや存在しない。ジダンの“あのすごいプレー”という僕たちの記憶は、枯れることなく木が成長するように、時間がたつに従って、記憶の中に深く刻まれて広がっていくに違いない。

川本梅花

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