川本梅花 フットボールタクティクス

【無料記事】スタジアム「女人禁制」のイスラム教シーア派の社会【コラム】映画「オフサイド・ガールズ」を見て

映画「オフサイド・ガールズ」を見て

映画『オフサイド・ガールズ』を見て
-苦しみの量は少なくならない、減っていくのは希望の量だけだ-

ジャファル パナヒ監督の『オフサイド・ガールズ』を紹介したい。なぜかと言えば、パナヒの最新作『人生タクシー』が新宿武蔵野館で公開されているからである。これは、2015年ベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いている。詳細は下記URLを参照してください。

http://shinjuku.musashino-k.jp/movies/1860/

パナヒは、政府への反体制的な活動を理由に、2010年より「20年間の映画監督禁止令」を受ける。そこで、パナヒ自身がタクシー運転手に扮(ふん)して、厳しい情報統制下にあるテヘランの街に暮らす乗客たちの人生模様を描き出した作品が『人生タクシー』である。

僕たちが見ることがないイランの真実が、この映画を通して一瞬顔をのぞかせるに違いない。パナヒの映画、見に行く価値があります。

『オフサイド・ガールズ』のストーリー

イランでは、女性が男性のスポーツを公共の場で見ることを禁じている。イスラム教社会の規制の中、登場人物の少女たちは、サッカーのイラン代表が、ドイツW杯アジア最終予選で本戦出場を懸けたバーレーン代表戦を、スタジアムで見ようと孤軍奮闘する。監督は『チャドルと生きる』でベネチア国際映画祭金獅子賞に輝いたジャファル パナヒ。イランの女性問題というシリアスな題材と、サッカー観戦への熱情を表現したドラマである。

映画に求めるのは、現実ではなくむしろ一瞬の真実

イラン出身の女性英文学者のアザール ナフィーシーが書いた『テヘランでロリータを読む』(2006年 白水社)の中に、「私たちがフィクションに求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」と記されている。この文章の対象を映画に当てれば、次のようなことが語れるのではないか。

フィクションは、誰かによって作られたモノである。作られたモノだから、そこに現実は存在しない。しかし、作られモノにも存在するモノがある。それは、真実がちょっとだけ顔を出す瞬間が存在するということだ。映画は、題材に現実が含まれていても、ひとつのフィクションとして理解される。フィクションという映画の中に現実を読み取るよりも、背後に見え隠れする真実を読み解く。イランというイスラム教社会に住む女性の性に対して、排他性や孤立性や蔑視性を見ることよりも、女性がいかにそこからすり抜けようとしている時に、真実性が一瞬顔を出すのである。そこを描けるのが、映画が持つ武器なのだ。

スタジアム「女人禁制」のイスラム教シーア派の社会

映画監督は、観客に自分の作品を理解してもらうために、伏線となるいくつもの仕掛けを置く。『オフサイド・ガールズ』のジャファル パナヒ監督は、作品の中に機知に富んだ仕掛けを行っている。まず、冒頭シーンにおける年配者のセリフがそれに当たる。イラン代表のサポーターたちは、バスに乗って試合会場に向かう。そうした中、サポーター同士でちょっとした喧嘩(けんか)が起こる。その様子を見ていたバスの運転手は、あきれて仕事を放棄する。サポーターは、やっとのことで運転手をなだめて運転席に連れ戻す。その時に、リーダー格の人物が、喧嘩相手の年配者に言う。

「年寄りがどうしてスタジアムに行くんだ?」

と質問する。

「普段の生活では言えない、罵声や汚い言葉を吐くためにスタジアムに行くんだよ」

と年配者は答える。

彼の話を耳にした1人の少年が大きな声を張り上げる。

「そのためにスタジアムに行くなんてバカげたことだ!」

しかし、リーダー格の青年は、「そうか。素晴らしい!」と叫んで年配者と抱擁をする。男子が、「罵声や汚い言葉をスタジアムで吐く」というこの事実を理由にして、スタジアムは男の世界のもので、その場所は「女人禁制」であると言う現実を、監督は、冒頭のシーンで匂わせている。そして、この映画の物語の核は、スタジアムは「女人禁制」であるという規制への、ユーモアに富んだ少女たちの抵抗であるのだ。

92分の上演時間と92分の試合時間

次に、監督が仕掛けたことは、対バーレーン戦のアディショナルタイムを入れた92分と言う時間と、映画の上演時間を同じにしたことである。これによって、映画の中のスタジアムと映画館にいる観客の間に臨場感をもたらして、W杯出場を決める試合の緊迫感を示そうとしたのだろう。

さらに、ピッチでの選手のプレーが、スクリーンに映るのはほんの一瞬だけで、ほとんどは、TV画像や会場警備に当たった兵士の実況中継で語らせる。そうした手法は、こんな理由からだろう。女人禁制の会場に、少女たちが、いろんな工夫をして入ろうとするが結局は捕まってしまい、スタジアムの歓声しか聞こえない場所に彼女たちは隔離される。「いたくないのに、いさせられる」という閉塞(へいそく)感と、「見たいものを見られない」という断絶感を描くために、選手の実際のプレーを撮らなかったのだ。

こうした監督の仕掛けは、映画を作る時のほんの「遊び」にすぎない。スタジアムの中で捕まった少女たちは、あの手この手で「サッカーを見せてくれ!」と監視する兵士に訴える。彼ら彼女らのやり取りは、確かにユーモア溢(あふ)れるものだ。しかし、ユーモアを持って描く映画は、逆にユーモアを持ってしか描けない事情が、深層に隠されているのだろう。

ジャファル パナヒとアザール ナフィーシー

監督は、1995年の処女作『白い風船』で少女を主人公にした。この頃のイラン映画は、少女をメインにする作品が多い。これは、大人の女性が、素顔をそのまま表に出せないという宗教上の理由から来るものだった。そして、2000年に撮った彼の出世作『チャルドに生きる』は、大人の女性が数名登場するオムニバス形式の作品である。この時代になって、やっと大人の女性が、スクリーンに顔を出すようになる。しかし、パナヒの作品は、本国イランで劇場公開されていない。

イスラム教社会の中で、イランは、人口7000万人の内の3分の2が、イスラム原理主義を唱えるシーア派に属すので、女性に対する宗教上の戒律は、とても厳しいものである。イラン社会の女性に対する厳しさは、冒頭で紹介したアザール ナフィーシーの『テヘランでロリータを読む』に詳しく述べられている。彼女は、イラン革命後に、自国の大学を追われアメリカに亡命した学者だ。

本のタイトルにある『ロリータ』とは、ウラジーミル・ナボコフの作品で、12歳の少女に一目ぼれした男が、彼女を生涯拘束しようとする内容。この女性学者は、イラン革命で監視下にあった時、自国での禁止書『ロリータ』の読書会を女性だけで開いた。その回想録が、彼女の著書である。彼女は、拘束された『ロリータ』の少女と対比して、自分たち女性は「自由を奪われ、厳しい道徳や規制を強制され苦しんでいた」と話す。彼女の発言は、文化における性差別の克服をテーマにした「フェミニズム」であると言われる。

パナヒの映画を見て、ナフィーシーの本を読む。男子のパナヒが、イスラム社会の女性を「入場禁止」のサッカースタジムを通して描く。女子のナフィーシーは、イスラム社会の女性を「読書禁止」の文学作品を通して記す。両方とも共通するタームは「禁止」である。一瞬だけ見える真実は、映画や本の中に、ちりばめられている。それが見えるのか見えないのかは、あなたの視点次第だ。

川本梅花

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